産業

 熊取を含む泉州一帯はもともと農業と綿業が盛んな地域として知られ、古くから「泉州玉ねぎ」「和泉木綿」の名は全国に響きわたっていました。時代の変遷とともに、熊取の地場産業の状況は大きく様変わりしたものの、いまも熊取の自然風土や伝統技術を活かした地場産業が脈々と受け継がれています。農業分野においては、ふきや水なす、玉ねぎなどが栽培され、熊取の特産野菜として全国の市場へ出荷されています。
 繊維産業の分野では、綿スフ織物とタオル生産が中心で、新しい形での発展をめざし、最新鋭設備の導入や高付加価値な製品づくりに力が注がれています。その試みのひとつとして、熊取の地場産業振興協議会が企画したタオル製品が関西国際空港の売店で販売され大ヒット商品となりました。

自動販売機の横のショップひまわりの外観写真

ショップひまわり

 地場産品のアンテナショップとして、タオル製品、地場野菜・果実、和洋菓子、泉州郷土料理、だんじりグッズなどさまざまな商品を取り扱っています。
 地場産品を通じて、地域にとって身近な存在になっています。

  • 場所:泉南郡熊取町五門西1丁目10番1号(地図情報をご参照ください) (煉瓦館内)
  • 電話:072-452-1428

タオル業

機械でタオルを作る、タオル工場の写真

 熊取町のタオルは隣接(泉佐野市)の白木綿業者、里井円治郎氏が明治18年(1885年)に輸入タオルを解織して、その製織法の研究に着手、苦心の末、明治20年(1887年)に筬(おさ)のテリモーションを利用して輸奈(パイル)をつくる「打出機」による タオル製織に成功、その製品をカルキで晒したことからわが国で最初の後晒タオルを完成しました。
 タオルは以前からも国内へ輸入されていましたが、肌触りがよく、保温性・通気性に優れていたことや当時高価であったことから、主に襟巻きとして用いられてたといいます。熊取町においても明治26年(1893年)頃タオルの生産が開始されました。明治33年(1900年)に全国で初めてジャガード機を使用した紋タオルが生産され、泉州地域としては、100年の歴史を持つわが国有数の産業として発展してきました。
 しかし、近年のタオル産業は、消費者ニーズの多様化、輸入品の増大をはじめ製品の低価格化等厳しい環境にあります。こうした環境変化に対応し、伝統ある地場産業を一層繁栄させるため、高付加価値製品の開発等に力を注いでいます。

綿スフ織物業

 大阪府下での綿・スフ織物の歴史は古く、今を去る600余年前の室町時代に綿の栽培を行い、白木綿を製織したのが始まりです。
 江戸時代になり「和泉木綿」の名で知られ、日本の中心的な綿業地帯を形成しました。 以来幾多の変遷を経て静岡県、愛知県、兵庫県とともに、わが国の4大産地の一つに数えられるまでに発展しました。
 衣料用織物を始め工業資材用織物、衛生材料用織物など広範囲にわたる数多くの品種が製織され、海外市場への輸出や国内需要に対する素材供給基地として大きく発展を遂げてきました。
 大阪の綿・スフ織物の産地である熊取町においても、近年の産業構造や消費者ニーズの著しい変化に対応し、伝統ある地場産業を一層繁栄させるため、各企業では、最新鋭設備の導入と高付加価値製品への転換を図るなど企業体質の改善強化に努めています。
 また、常に変化する消費需要に適合した新製品の開発を図るなど産地一丸となって躍動しています。

農業

 泉州は大阪、神戸、和歌山などの都市に近く需要に応じて種々のそ菜や果実を生産していましたが、明治17年(1884年)、田尻町吉見の今井佐治平、大門久三郎、道浦吉平の三氏が玉ねぎ栽培の研究に努め、国内はもとより広く海外まで泉州玉ねぎの名声を博するようになりました。
熊取町で、玉ねぎが栽培されるようになったのもこの頃からと言われています。
 明治30年(1897年)頃には米と玉ねぎの二毛作が農家の経営パターンとなっていましたが、大正12年(1923年)に旧信達村(泉南市)の松下喜治郎氏が換金作物としてさといもを栽培したところ、生育もよく水田栽培に適していたため、急速に泉州各地に波及し、熊取町でも栽培するようになりました。雨山水系の豊かな恵を受け育まれた熊取町のさといもは、他の産地と比べてきめ細かく、質の高さから料亭などでもよく使われているほか、別名「小芋」と呼ばれ、熊取町のご家庭の食卓でも親しまれています。
 大正末期には貝塚市清児の田中権一氏が戦友より水ぶきの栽培を修得し、現在の八尾市久宝寺から水ぶき地下茎を導入したのが、泉州地域でのふき栽培の始まりと言われています。
 熊取町では昭和21年(1946年)頃からこも掛けによる霜よけ栽培が、昭和28年(1953年)頃からトンネル栽培が行われ、収量の増大や出荷の前進につながりました。
 昭和35年(1960年)には種茎の冷蔵ハウス栽培により毎年10月から翌年6月まで連続出荷ができるようになり、今では全国的にも有数のふきの産地として知られています。
 水なすは泉南地域の特有の品種で、泉南の気候風土、食習慣や生活実態に対応して育成されたものと思われます。栽培の歴史も古く、江戸時代の初期からと伝えられています。水なすは皮が非常に柔らかく、軽く塩もみし、ぬか漬けにすると翌朝には鮮やかな紫色に仕上がり、その味は絶品です。
 これらの野菜については、熊取町の特産野菜として京阪神地方を中心に広く全国の市場に出荷しいます。
中でもふきや玉ねぎは、食卓に欠かせない「熊取町の野菜」として全国的に有名です。

ザルにたまねぎが5個ある写真
大きな葉の上にさといもが置いてある写真
ふき
籠の中に、可愛い水なすが並べられた写真

鉄工業

 古くは明治、大正から昭和初期にかけて農機具(くわ・かま、すき)などの農鍛治屋が中心でありましたが、昭和初期より織物業が盛んになると並行して農鍛治屋から織機、溶接、旋盤系統の家内工業へと移り変わってきました。
戦後は、大手機械・電機・自動車メーカー等の下請工場として、各種機械部品の製造、加工等、町の発展とともに多品種の鉄工部門に進出してきています。
 また、昭和38年(1963年)以降には、町内に住友電気工業株式会社などの大手企業が進出して海外市場への輸出や国内需要に対する供給地として大きく発展を遂げてきました。
 熊取町においても近年の産業構造の変化に対応しつつ、伝統ある地場産業を一層繁栄させるため、各企業では、最新鋭の設備を導入することにより、高付加価値製品への転換を図るなど企業体質の改善強化に努めています。

造園業

黒松の上に造園業の方が作業する写真

  古くは、江戸時代に書かれた「五畿内物産絵図」によると、熊取町では上質の「赤土」とそこに群生する黒松が山をおおっていました。
  明治末期頃よりこの黒松を鑑賞用として育て剪定したことから植木職(造園業)が盛んになったと言われています。
  最近の造園業は、松の剪定が自然に近い木の芽を生かした「熊取流ちらし」という方法で行われています。

地図情報