歴史

 熊取町は、平安時代初期に編さんされた『日本後紀』において、桓武天皇が延暦23年(804年)「熊取野」で遊猟されたことが記されているなど古くから世に知られています。また、平安時代末期には、後白河法皇が熊野詣の途中に五門の中家に立ち寄られ、行宮(仮設の御所)としたという伝承が残っています。
 鎌倉時代には、熊取荘という荘園が存在し、南北朝時代には本町の南にそびえる雨山の頂上に築かれた雨山城が北朝と南朝の争奪戦の場となりました。
 また、正平8年(1353年)には南朝方の橋本正高が雨山城を居城として整備し、和泉の南朝の拠点としました。
 江戸時代に岸和田藩に属していた熊取の村々は、明治時代にはいると、大久保・五門・紺屋・野田・七山・小垣内・久保・小谷の8か村が、明治22年(1889年)の町村制施行により合併し、熊取村が成立しました。また、この時代には、ため池かんがい農業に加え、織物業が盛んとなり、昭和時代にはタオルを中心とした繊維産業が発達しました。
 昭和5年(1930年)には、阪和電気鉄道(現JR阪和線)の天王寺駅と和歌山駅間が結ばれ、同時に熊取駅が開設されました。
 第二次世界大戦後、繊維工業の発展にともない人口も増加し、昭和26年(1951年)11月3日には町制を施行し、「熊取町」となりました。
 昭和38年(1963年)に、京都大学原子炉実験所が設置され、熊取駅が快速停車駅となったことで丘陵地を中心に大規模な宅地開発が活発となり、人口も急増、農村型集落から大都市近郊住宅都市へと変貌してきました。
 また一方では、南部山地の町有林をはじめ、豊かな自然環境を生かし、住民の保健休養・レクリエーションの場として、昭和55年(1980年)から 奥山雨山自然公園 の整備を行うなど、みどりを生かしたまちづくりを進めてきました。
  昭和60 年(1985 年)以降、関西鍼灸短期大学(現関西医療大学)や大阪明浄女子短期大学(現大阪観光大学)、大阪体育大学が相次いで開校し、平成6年(1994 年)の熊取図書館の開館などとあいまって、泉州地域で屈指の学園文化都市となりました。また、この年には、泉州沖に関西国際空港が開港し、臨空都市圏域のまちづくりに弾みがつくとともに、本町では、平成8年(1996 年)の総合体育館(ひまわりドーム)の開館をはじめ、翌年からは、熊取駅の橋上駅舎や駅前交通広場の完成、総合保健福祉センター(熊取ふれあいセンター)のオープンが相次ぎ、平成17 年(2005年)には、まちの交流拠点となる煉瓦館のオープンに至るなど、様々なビック・プロジェクトを展開しました。さらに、地球規模での交流・交易に拍車がかかる中、平成13 年(2001 年)にオーストラリア・ミルデューラ市との間で姉妹都市提携を行うなど、多彩な国際交流を推進しています。