中家の歴史

 中家は平安時代、後白河法皇が熊野行幸の時に立ち寄り、行宮(仮設の御所)とした由緒ある泉南地方の旧家です。「中」の家名は、前九年の役(1051~62)に源頼義と共に奥州へ下向した高瀬清原武盛の跡を継いだ嫡男盛晴が、中と改めたことに始まり、盛晴の嫡男盛秀は左近将監に任じられ、中家は代々「左近」を名乗りました。

 室町・戦国時代には紀伊国根来寺の氏人となり、根来寺の一子院であった成真院に子弟を送るなど深いつながりをもちました。そして、その勢力を背景に広く和泉国や紀伊国北部に及ぶ田畠を買い集め、また麹販売の権利を持つなど、この地方における政治・経済の担い手として活躍しました。なお、成真院院主であった根来盛重は徳川家直臣として、関ヶ原の合戦や大坂の陣で奮戦し、のち徳川家の旗本になりました。

 江戸時代には岸和田藩の郷士代官(松平氏の時代)や七人庄屋(岡部氏の時代)の筆頭を勤めました。谷内には四百石を越える持高を有し、三十軒前後の「家中」と四十軒余りの「内衆」を抱えていました。五門・野田・紺屋・小垣内・宮・久保・下高田の村々の年貢徴収や、年寄・組頭の決定など熊取谷の行政全般を委ねられるとともに元禄5年(1692)には岸和田藩藩札の札元に任じられ、藩経済にも貢献しています。

屋根がかやぶきと瓦に分かれており、かやぶき屋根の部分に家紋が掲げられている、中家住宅の正面を写した写真

 中家住宅正面の家紋は、後白河法皇が熊野山行幸の折、当家にて作った甘瓜を献上し、それを喜ばれてこれを家紋とするようにお言葉があったことにちなみ、「三つ巴」と定めたものです。

 また中家は江戸時代末期、思想家として活躍した25代当主中瑞雲斎(1807~1871)や、明治時代に衆議院議員を勤めた28代当主中辰之助(1867~1936)などの人物を輩出しています。
 なお、中家には室町時代の売券をはじめ明治時代に至る古文書が多数伝えられています。(『熊取町史』史料編1、2を参照)。

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